今月の法話      平成29年 12月

芬陀利華 (プンダリーカ・白蓮華) 

親鸞聖人の『正信偈』に芬陀利華というお言葉が出てまいります。また、仏教讃歌にも同名の歌があります。以下にご紹介いたします。

1、一切善悪凡夫人   (一切(いっさい)善悪(ぜんあく)の凡夫人(ぼんぶにん))
2、聞信如来弘誓願   (如来(にょらい)の弘誓願(ぐぜいがん)を聞信(もんしん)すれば)
3、仏言広大勝解者   (仏(ぶつ)、 広大(こうだい)勝解(しょうげ)のひととのたまへり)
4、是人名分陀利華   (この人(ひと)を分陀利華(ふんだりけ)と名(な)づく)

意味
1、善人も悪人も、 どのような凡夫であっても、
2、阿弥陀仏の本願を信じれば、
3、仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ、
4、汚れのない白い蓮の花のような人とほめたもう。

 



       境内の大白蓮


仏教讃歌に川上清吉師(明治29年~昭和34年往生)作詞による
「芬陀利華」(ふんだりけ)という美しい曲があります。

1、よしあしの間(はざま)を まよい
 より処(ど)なき 凡夫(ただびと)すらや
 みほとけの 誓いをきけば

2、おおいなる みむねをうけて
 現世(うつしよ)の にごりえに咲く
 かぐわしき 芬陀利華(しらはちす)かも

3、世のひとの うちにすぐれて
 上(うえ)もなき 人とたたえん
 みほとけの かくこそは告(の)れ 


意味は、『正信偈』の上に紹介したご文をもとに作詞しておられます。

親鸞聖人は、『一念多念証文』の中で、
「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、消えずたえず、と水火二河のたとえにあらわれたり。」と、凡夫とはこの私のことであると深くご自身を慚愧されたお方です。

自分の都合に合う人は善い人。都合に合わない人は悪い人。自分の言うことを聞いてくれる人は善い人。聞いてくれない人は悪い人。と、自分を物差しに、善いとか悪いとか、好き嫌い、きれいや・きたないと物事を分けへだてしていくのが私たちの偽らざる姿です。

その時の感情の趣くままに、右往左往している私の姿が、1番の歌詞に示された、「よしあし《善悪》の 間(はざま)をまよい より処(ど)なき」という言葉の意味でしょう。それを「凡夫」というのです。

その凡夫の私でさえも、阿弥陀仏の「心配するな。我にまかせよ。必ず護り、救う」との大悲の誓いを聞いたならば、というのが「凡夫(ただびと)すらや みほとけの 誓いをきけば」という歌詞の意味です。

2番では、この私の住む現実の娑婆世界は、五濁悪世とも表現され、汚れきった世界であり、誘惑の多い、自らの快楽のみを追い求めていくことにあくせくとしている世界を「現世(うつしよ)の にごりえ」と、表現されたのでしょう。

そんな五濁悪世に生きる、自分のことしか考えなかった私、快楽のみを追求していた私が、阿弥陀如来の「心配するな。我にまかせよ。必ず護り、救う」との大悲の誓いを聴く身にお育てをいただき、その慈悲の世界に抱かれている身とさせていただいた喜びを「おおいなる みむねをうけて 現世(うつしよ)の にごりえに咲く」と、表現されたのでしょう。

2番から3番にかけて、そのような私の姿を、「かぐわしき 芬陀利華(しらはちす)かも」と表現されています。すなわち、「阿弥陀さまの教えを身にいただいて、泥の中から、法の香りのする美しい白き蓮の花(白蓮華・芬陀利華)を咲かすような人である」と讃えて下さいます。

地球上の人口は、約60億人といわれますが、それだけたくさんの人がいる中で、この阿弥陀仏の教えに出遇えた人は「すぐれた尊き、この上もない人と褒め讃えられる」との意味です。

「みほとけの かくこそは告(の)れ」とは、お釈迦様は『大経』の中で、そのようにご説法して下さいます。という意味です。 

「芬陀利華」とは、
泥水(煩悩にまみれた汚れた世間)から、スーっとのびて、
泥水一滴の汚れもつけず、真っ白な美しい花を開花する、仏さまの教えに出逢った人を蓮の花にたとえて、褒め讃えてくださっていますよという歌であります。



          境内 中庭の紅葉


           池に映った  境内中庭の紅葉