2010年 1月 今月の法話

迎 春

阿弥陀さまの限りなきいのちにいだかれ、限りなき光りの中に、新しき年をお迎えのことと思います。
本年もみなさまと共に阿弥陀さまのお慈悲を尊ばせていただきながら日々を過ごしてまいりたいと思っております。よろしくお願いいたします。

奈良では今年「平城遷都1300年」を迎え、各種行事が取りおこなわれます。
淨教寺でも関連行事といたしまして6月5日(土)に、明治時代廃仏毀釈の中、仏教とその秀でた価値ある美術のすばらしさを岡倉天心と共に淨教寺で講演したフェノロサを顕彰する会を開催する予定です。乞うご期待下さい。



      


       


私たち浄土真宗門徒にとりましては、何と言いましても再来年2011年(平成23年)にお迎えいたします「親鸞聖人750回大遠忌法要」が待ち遠しい事でございます。この50年に一度のご勝縁をお迎えする準備として、今年は親鸞聖人をもっともっと身近に感じさせていただくためにも、ズバリ
「私にとっての親鸞聖人」を合言葉に、親鸞聖人を学ばさせていただきたいと思います。
その手掛かりに、西本願寺第24代大谷光真ご門主が
『愚の力』(文春新書)という本を出版されました。わかりやすい優しい言葉で、私たちの身近な問題・関心事を話題にしながら、聖人の教えを今の言葉で丁寧にお示しくださっておられます。ぜひみなさまもこの機会に手にとってお読みいただきたいと思います。

『愚の力』の内容を少し紹介させていただきますと、

「私が若い頃、お説教の席などで「そのままのお救い」という言葉をよく聞きました。不思議な理解し難い表現だと感じたことがあります。教義としては阿弥陀如来の「そのままのお救い」は間違ってはいないのですが、私が違和感をもったのは、「そのまま」でいいのなら自己反省は必要ないのか、という点でした。
 現代人に対して、この表現は非常に危ういと思ったのです。近ごろも「そのまま救われて、それでいいのですよ。そのままのあなたでいいのですよ」という言葉をよく耳にします。前にも述べたスピリチュアルブームや癒しがそれです。
 言葉だけとれば、阿弥陀如来の救いと似ています。「そのままのあなたでいいのですよ」と。しかし実は異なるものです。
 少し考えれば分かることですが、阿弥陀如来が救うといわれるのは、私がこのままではいけないから救ってくださるのです。私の側が「このままでいいのですよ」との姿勢であったならば、救いも何もいりません。阿弥陀如来が救わずにはいられないのは、今のままのあなたがほうっておけないからです。つまり大変に心配いただいている状態にあるというのが前提です。
 抜きがたい苦悩や罪悪を抱えた、修行も善行も末通らない、とてもほうってはおけない状態にある。それ故に阿弥陀如来は「そのまま救う」といわれるのです。そのままの私が全面的に肯定されているわけではありません。そこに居直ってはいけないのです。
「慚愧」とは、わが身を恥じるということです。救われねばならない私であると気づくということがまずは大切です。その上で、救わずにおれないと阿弥陀如来に願われていることに気づかされた今を背負って、未来を生き得るということになるのです。だからこそ「慚愧」という行為を通じて、「喜び」が開けることになります。(中略)
 ではなぜ阿弥陀如来が「救わずにはおかない」と説かれるのでしょうか。それは私に正しいもの、絶対と言えるものが何一つないからです。
「阿弥陀如来のこころを思い起こすこと」とは、「すべてを受けいれて、共に悲しみ、共に歩んでくださる広く深い慈悲のおこころに気づく」ことです。私もあなたも同じ慈悲のこころに支えられている。このことに気づいていただきたいものです。(中略)
 阿弥陀如来の慈悲に救われると知ったものが、自分の不完全さから目をそらさずに自らできることをする。私の行為が慈悲なのではなくて、阿弥陀如来の慈悲の中で、今何ができるかということです。(中略)
 浄土真宗には伝統的に「お育てに遇う」という言葉があります。慈悲のこころをもつ自分自身が不完全なものであると知ることで、自分が深まっていく。それが「育てられる」ということです。(中略)
親鸞聖人は人間性というものを素直に受け止められました。無理に強がりを言ったり、都合の悪いことを隠したりしません。自分の愚かな姿をそのまま認められました。
 自分が先に立って自己の愚かさを認めて下さった。だからこそ、多くの人が時代を超えて親鸞聖人の教えを聞こうとするのではないでしょうか。
 高みに立って「私」を受け入れると言われるのではなくて、聖人御自身が受け入れられている同じところに「私」もいるのだと教えて下さり、それが阿弥陀如来の慈悲だと示されています。「人間中心の考え方」に染まり現代のニヒリズムに捉えられている現代人にも、生きていくことができる道を指し示しています。」

このような語り口でつづられる文章は、私の心の中に静かに水がしみ込むように深く味わいのあるものです。
他にも、五木寛之氏の小説「親鸞」(上・下)や別冊「太陽」など関連のものが多く出版されています。ぜひ親鸞聖人を身近なお方としていただきたいものです。
なお、昨年発行の「淨教寺時報第39号」の稲垣瑞劔先生の「浄土真宗のみ教え」も繰り返しお読みください。